病気で瞼が腫れて4週間…。まだ、サングラスは外せない。
8月の終わりから涙がでたり目の周りがかゆかったり…軽い症状からいえば、症状は3ヶ月目だ。

周りで起こった現象化している出来事をもう一度ひとつひとつ振り返ってみる。
8月下旬で思い返すと、時期的に「もしかして…?」と心当たりがないこともない…。

それをヒントに、亡くなった父の写真と3才から会っていない母の写真を一日に1回以上見ることを始めました。翌朝、ふと「あぁ…、小さいころは、母の悪口を散々聞かされたなぁ」ということを思い出しました。

両親は、兄が4才で事故死したころから夫婦喧嘩が絶えなくなり、私が3歳の時に離婚。その後、しばらくして父と祖母に引き取られて大切に育てられました。

祖母の母に対する憎悪と、父の未練がましい感情と愚痴、そして、母に対する悪口を散々聞かされて育ちました。
「えっ?そんなに悪い人だったの?」「そんなにひどい人だったの?」と聞き返したくなるのを抑え、そこまで言わなくても…と、どうにもならない感情を抑えながら二人の言葉を黙って受け入れました。
そして「こんなひどい母親だよ、会いたくないやろ?」と二人に聞かれる度「うん」と応えなきゃ悪いな…と、子ども心に気も使っていた幼少時代。

でも、それをそのまま信じていたわけではありません。それは、3才までの母との思い出を忘れないように大切にしていたからです。そして幸いなことに、父の兄嫁の叔母がこっそり母の素晴らしいところをたくさん教えてくれたことで、その思い出の記憶はすり替えられずに済みました。
中学生に上がる頃には、二人が母の悪口を言いはじめると「お母さんは、そんなに悪い人じゃないと思うよ~」「お母さんに会いたいな~」と言えるようになり、次第に、二人から母の悪口は消えていきました。そして「お母さんのこと好きか?」「会いたいか?」と聞いてくれるようになり、素直に気持ちを伝えられるようになりました。

一方で、父と祖母がどうしてそんなに母のことを酷く言っていたのか、その気持ちも幼心に理解していました。
父は母のことが大好きでした。愛情が強すぎたために、父にとって離婚という結末は受け入れがたい現実だったのだと思います。
どれだけ自分の発した言葉や行動を後悔していたことでしょう…。
みんなが寝静まった後、誰にも気づかれないように後悔に浸る父の背中を、父が自ら命を絶つ日まで、ずーっと見てきました。
生涯愛したのは母だけだったと思います。やり場のない深い愛情をどこに向けたらいいのか、荒れた父の姿はそうした寂しい心の悲鳴だったと思います。

そして私も、父のそうした姿を見ながら「かわいそうだな」「さみしいだろうな」と、心では慰めたいと思っていましたが、結局、慰めることはできないまま、逆に「男やろ、いいかげんに忘れたら?」と、心ない言葉を言う酷い娘になっていました。
寄り添う言葉を素直に父に伝えられていたら、優しく父に接していたら…、もしかしたら、父は自ら命を絶つことはなかったかも知れません。

祖母もまた、そうした父を見ていて慰めてあげたい気持ちでいっぱいだったと思います。
子供を思う母心…。
父を哀れに思い、いっしょに悲しむうちに次第に歪んでしまった憎しみや責め心…。
やり場のない思いが、酷いことを言ってしまう結果になってしまったのだと思います。

そして母も…。
元気に遊んでいた4才の子どもが、両親が目を離したほんの少しの間に事故に会い、突然亡くした時の二人の悲しみはどれだけだったでしょうか…。誰を恨んだらいいのか、両親は最初は互いに自分を責めていたと思います。そして、やり場を無くしたその感情は、間違って母一人へと向けられるようになった。
私も子を持ち母になりました。もし自分の子どもを亡くしたら…想像するだけでも胸が苦しくなります。深い悲しみ。本当なら夫婦で励まし合い、一緒に乗り越えられたらどれだけ心強かったか…。
私の記憶は、誰かのせいにせずにいられず、父が母を責めている姿です。どちらもそれぞれに辛かっただろうな…。
母は、自分の感情を深く沈めて、父の悲しみを受け入れようとしてくれていたと思います。

でも、それは長くは続かない。抑えていた感情は溢れ出し、耐えられなくった母は、私を連れて家を出ることを決意。
でも、当時は、離婚に対する世間の風当たりが強く、協議離婚の結果が前半に書いた内容です。
兄だけでなく、まだ3才の私までも手放さなければならない境遇。
どれだけ悲しみ、どれだけの涙を流したでしょうか…。

私は母と話した最後の会話を覚えています。
離婚が成立するまでの一年間ほど、私は両親から離れて親戚の家を転々と預けられました。
そんな一年が経つころ、当時は母方の祖母に預けられていました。夜寝る前だったと思います。祖母が誰かと電話で話しをしていました。しばらくして「ママから電話よ」と受話器を渡されました。喜んで受話器を取ると、電話口で母は泣いていました。「お利口さんにしてた?もう少ししたら帰るからね。ちゃんと言うこと聞いてね。お利口さんに寝て待っててね…」。電話の後「ママ、なんでなきよったと?」と祖母に聞きました…。

事情を何も知らない無邪気な娘との最後の会話。
もう二度と話すことは許されない…その悲しみを圧し殺し、精一杯の笑顔を作りながら言葉を絞り出してたに違いない。
母の悲しみが大人になってわかるようになりました。

そして、もう一つ分かったこと。
私も、長男3才、次男1才の時に一度離婚をしました。
「自分は昼も夜も睡眠を削ってこんなに働いているのに!」
当時の夫に対して、責め心しかありませんでした。
離婚後は、子供たちにたくさん悪口を言って育てました。そして長男が19才の時、あることがきっかけで、自分がとんでもない間違いをしていたことに気付き、これまで悪口ばかり聞かせて申し訳なかったという気持ち、父親の良いところを思い出しながら手紙にして成人式の日に渡しました。そして、次男にも同じように成人式の日に手紙で伝えました。5年前のことです。

別々に捉えていた出来事ですが、今になって繋がっていたんだなぁということに気が付きました。
私も、父や祖母がしてきたことを気づかず子供たちにしていたのです。
父親の悪口を散々言って育てました。
「ああ、親がした通りのことを子供は繰り返すって、こういうことなんだ…」。
親子の因縁、ここで断ち切れるかな。

誰を主人公にしてもドラマです。それぞれに人生新劇が繰り広げられ、どの主役も、その時の悲しい事実がそこにありました。そして、それぞれがその事実に向き合いながら、新たな人生を生きている。
主役は自分自身。神様は、ハッピーエンドになる筋書を用意しているに違いない。その筋書き通りに私は生きいるのか。色んな方法で筋書に導く準備を神さまは用意してくれている。

心と病気。
なんとなくですが、今回ここに書いたいろんなことが病気の症状に繋がっているような気がするのです。
今、様々な出来事に対して反応している心は、聞きたくないこと、知りたくない、どうして仲良くできないのかな、どうしてわかりあえないのかな…。そうした心境が、当時抱いていた心境に近いような気がするのです。

私自身が心の声にフタをしている。これが現実です。
どうしてフタを開けなかったのか。
大切な人が傷つくことで、私自身も傷つく、そのことを恐れているから。
たぶん、まだ開けたくない扉だ。
でも、こうして色んな感情に行きつき、様々な気付きを得たということは、開ける時が来たよってことかな。
この扉…。
私がこれまで出来なかったこと。
大切な人の悲しみや怒り、苦しみを自分と同じことのように同じ温度で感じること。
一緒に喜び、一緒に楽しむことは同じ温度でいられるのに、ネガティブな感情には一歩離れ、冷めて見ていた自分。
一緒に悲しみ、一緒に怒り、一緒に苦しむこと。
過ぎてはいけないけど、寄り添うってそういうことなんじゃないかな。

ネガティブな感情を表現できなかった幼少期の自分(記憶)が、誰かが困るかも、誰かが悲むかも…という記憶が、現在も私にブレーキをかけ、相手と一緒の温度になって怒ったり、悲しんだり、苦しんだりできなかった。
「そんな感情はダメでしょ…」と、冷めた自分でいるより、その時は一緒になって怒って、悲しんで、苦しんで、そしたら次に「でも、まあ、そこまでのことでもないよね…」と笑えるんですよね。
大切な人だからこそ、キレイごとなんて関係ない。
大切な人だからこそ、同じ温度でいることって大切なことなんじゃないかって思いました。
だって、自分がそうされたらきっと嬉しいし、逆に「そこまで思わなくても」って、かえって自分の方が冷静になって元気になれるかもって思いました。

人は簡単に開けられる扉でも、自分にはなかなか扉を開けることができない、そんな扉を誰もが持っていると思います。
別に今のままでもいいじゃない?って別の自分が言います。
自信がなかったり、恐れたり、不安だったり…ネガティブな感情が邪魔をします。
でも、その扉を開け、次のステージへ向かえた時「ああ、扉を開けてよかったな」と思います。
その扉は重いし、かたい。狭くて入りにくいし、痛い、苦しい…。
気付きは、その扉を押し開く準備が出来た時。
その扉を開けるカギは自身で開けるしかない。

心と病気。
病気になったことで色んな気付きを得ることができています。
面倒だな、億劫だな、傷付きたくないな…様々な感情から逃げていた自分。
「大切な人と同じ温度でいる」「相手に寄り添ってみる」「合わしてみる 」を、やってみようと思います。




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